ヒューマンストーリー

1975年~95年
 少年~高校時代

引っ込み思案だった少年時代

引っ込み思案だった少年時代

1975年1月11日、私は神奈川県横浜市で生まれました。「克夫」という名前には、「自分の弱さはすべて克服していきなさい。自分の弱さだけでなく、世界の困難をも克服していくのだ」という思いが込められています。

両親からそう教えられて育ちました。 小さなころの私は、まわりのクラスメイトたちと同じくプロ野球が大好きでした。近所の子どもたちと家の近くで野球をやったり、大洋ホエールズの応援をするために父と一緒に横浜スタジアムへ出かけたものです。
横浜中華街の警察署で剣道も習っていました。でも体が小さい下級生は次々と竹刀を打ちこまれてしまいます。教官を務める警察官が、容赦なく厳しい怒鳴り声を上げるのも怖くて仕方がありませんでした。泣きながら、必死で上級生に食らいついて竹刀を振るったものです。

小学4年生以降は少年野球チームにも入っていました。スポーツが好きではあったものの、私がほかの子より積極的だったわけではなく、小学2~3年生のころはおとなしいほうでした。通信簿に「引っ込み思案の傾向がある」と書かれたこともあります。

もともと積極的なタイプではなく、小学生半ばころの私は気持ちが縮こまっていました。野球で遊ぶ友だちはだいたいいつも決まっていたし、週のうち半分くらいは家に引きこもっていたのではないでしょうか。スポーツが好きではあったものの、決して腕白坊主ではなかったと思います。

「サザエさん」とカツオ君

「サザエさん」とカツオ君

中学・高校に進学してからは勉強やクラブ活動、生徒会活動などで手一杯になってしまったものの、小学生時代にはまわりの友だちと同じようにテレビやマンガ、ゲームを楽しんでいました。

毎週日曜日になると、テレビで「サザエさん」を必ず見ていました。私の名前が「克夫」であるため、磯野カツオ君になぞらえて今でも「カツオ」「カツオ」と多くの人から親しく呼んでいただいています。

引っ込み思案だった私も、小学5年生あたりから磯野カツオ君のようにだんだんと積極性が身についていきました。勉強を一生懸命がんばって成績が良くなり、もともと好きだったスポーツを続けたおかげで体がどんどんたくましくなっていきました。

将来はプロ野球選手になるか、飛行機のパイロットとして空を飛び回りたい。生来の引っ込み思案と押しの弱さを少しずつ克服しながら、私は横浜の地ですくすくと成長していきました。

矢倉家を襲った経済危機

矢倉家を襲った経済危機

小学三年生のときに父が事業で失敗し、大きな借金を作ってしまいました。父はもともと海運関係の仕事をしており、定年前に早期退職すると自ら新しい事業を立ち上げようとしました。

今から30年ほど前に「コンピュータの時代がくる」と確信していた父は、四畳半の部屋いっぱいに大量のコンピュータを買い込みました。

「時代を先取りしてこのコンピュータを売るのだ」と張り切ったものの事業はうまくいかず、退職金を失ったうえに借金まで積み上がってしまいました。矢倉家は非常に厳しい苦境に陥りました。 どこまでも明るい家庭ではありましたが、時々は両親が怒鳴り合ったり、ギスギスした雰囲気が家庭に漂っていたことも記憶に残っています。

父はビルの警備員やボイラー管理など、昼夜を分かたず仕事をしました。専業主婦だった母は新たに運転免許を取得し、ヘルパーの仕事をしながら家計を支えてくれました。

当時はバブル真っ盛りの好況に沸いていましたが、職を失った60歳前後の父に良い条件の仕事が簡単に見つかるわけがありません。父は仕事探しにかなり苦労したと思います。

私と妹はすぐに家計を支えられるわけではありませんが、そのぶん学校で一生懸命勉強し、家族皆で支え合っていこうと思いました。

「たゆまざる 歩みおそろし カタツムリ」

「たゆまざる 歩みおそろし カタツムリ」1987年、私は私立である創価中学に入学します。

今思い返してみると、私が私立学校に進学するのは家計をかなり圧迫したはずです。それでも両親は、どんなに無理をしてでも私を創価中学・高校に送り出そうとがんばってくれました。

後年になってから聞いた話によると、父は生活費の工面に行き詰まって消費者金融からお金を借りた時期もあったようです。そこまで無理をしてでも、息子を学園に送り出したい。そう考えてくれた両親には、いくら感謝しても感謝しきれません。
陰に陽にわたる両親のサポートのおかげで、私は中学生活をスタートさせました。入学式での創立者のスピーチは今でもはっきりと覚えています。

創立者は彫刻家・北村西望氏のエピソードを紹介されました。氏が長崎の平和記念像を制作中だった夜、足元にカタツムリがいたそうです。翌朝になると、そのカタツムリは9mの高さがある像のてっぺんまで登っていたという。北村氏は感嘆し、「たゆまざる歩みおそろしカタツムリ」と詠みました。このエピソードを通し、創立者は「努力の歩みを決して止めてはならない」と教えてくださりました。

どんなに地味で目立たなかったとしても、カタツムリのように淡々と努力を積み重ねる。たゆまざる努力の積み重ねによって、人はいつしか大きな頂きにさえも立てるのだ。と悟りました。

「正義の旗」

中学二年になり、生徒会の一員となってからは、その活動にのめりこんでいくことになります。わが母校の生徒会は、生徒主体でものごとを進めていくのが特徴であり、「さらにいい学校をつくるにはどうしたらいいか」などと、生徒会の役員たちで、毎日毎日議論を重ねました。

我ながら不思議ですが、あんなに引っ込み思案だった私が、生徒会活動を通して、次第に積極的な性格に変わっていきました。そしてあろうことか、中学二年の終わりに、周りから推されて、生徒会長に立候補することになってしまったのです。

当然ながら逡巡しました。何しろ生徒会の選挙は、毎朝校門の前に立ち、登校する生徒の前で選挙運動を繰り広げたり、推薦人と一緒にずらりと並んで立会演説会を開いたりしなければなりません。さすがに恥ずかしさもありました。しかし、結果は晴れて当選となり、中学最後の1年間を生徒会長として活動することになりました。

文化祭は、私の生涯の原点の日となりました。中学実行委員長として、皆の先頭に立たせていただきました。高校の先輩方と一緒に、「友よ 正義の旗を振れ」というテーマを掲げたことを今でも覚えています。

日本で最難関の大学に挑戦したい!

日本で最難関の大学に挑戦したい!

創価高校に進学した私は、志願して国公立受験クラスに入ったものの、当初は東大をめざそうとは考えてもいませんでした。
勉強一色の生活に最初は戸惑い、反発心からか柔道部に入部し、部活にも打ち込んでいきました。そうした生活を続けながらも、クラスメイトに負けたくないという思いがむくむくと頭をもたげてきたことも事実です。 クラスの仲間たちの勉強に打ち込む姿に、また外交官試験という最難関を突破するためにも、どうせなら日本で最難関の大学にチャレンジしようと決意したのは、高校一年も半ばを過ぎたころでした。

それに、わが家は経済状況が厳しかったため、高校時代は奨学金をいただいていたことも大きかったです。授業料免除という環境がなければ、大学受験など挑戦すること自体も無理だったかもしれません。それからは、猛勉強の日々が始まりました。
朝八時に学校に着くと、校舎の一角にある自習室へ真っ先に駆けこむ。そこで始業時間ギリギリまで勉強し、六限目まで授業を受ける。授業が終わったあとは、下校時間まで再び自習室で勉強に打ちこむ。
自習室を出てからも、自宅に帰るまでの電車の中で英単語や歴史の用語集を覚える。自宅に帰ったあとも、食事の時間を除けば夜の11時~12時までずっと勉強が続きました。

夏休みにもなれば、毎日10時間以上は勉強しました。
受験勉強は孤独で苦しい戦いではありましたが、今、机に向かって取り組んでいる勉強は絶対に無駄にはなりません。この小さな机の上での一つひとつの作業は、自分の将来とダイレクトに結びついている。受験勉強を通して人間として成長し、激動の世界に思いきり飛び出していきたいと思っていました。

1997年~
 大学時代

「余命半年」……父を襲った肺ガン宣告

「余命半年」……父を襲った肺ガン宣告

東大入試の合格発表当時、私の父は日勤と夜勤を交替しながら不規則な仕事をしていました。合格発表の日には仕事を休みにしてもらい、私に内緒で東大までコッソリ掲示板を見に行ったらしいです。私が合格発表を確認してから自宅に帰ると、家の中はお祭り騒ぎでした。
「よくやった!偉い!お前はすごい!」父はビールを片手に、男泣きに泣いて喜んでくれました。

93年冬、私は東京大学文科一類に現役で合格することができました。
ありがたいことに東京大学での学費も免除にしてもらえました。93年4月に東大に入学すると、学費の心配をすることなく学業に打ちこむことができました。
ですが、ここで新たな試練が訪れます。大学に入学してからいくらも経たないうちに、父に肺ガンが見つかったのです。私が大学に行っている間、父が自宅で突然泡を吹いてバタッと倒れたとのこと。

「余命は長くて半年です」医師による残酷な宣告を受け、父は厳しい闘病の日々を送ることになります。矢倉家が絶望の淵に立たされたのです。私が家計を支えよう。そこまで真剣に思い詰めました。余命半年の肺ガンだという事実は、父には知らせませんでした。

問題は医療費です。病院に入院して闘病するとなると、1ヶ月につき30~40万円は費用がかかります。「もうお先真っ暗だ」このままでは矢倉家は早晩経済的に破綻してしまいます。
そんな時、私たちを助けてくれたのは、一人の市議会議員でした。

矢倉家を救ってくれた市議会議員

矢倉家のピンチを救ってくれた市議会議員は、地に足のついた面倒見のよい議員でした。高額医療費制度について教えてくれ、1ヶ月につき30~40万円かかっていた医療費を8万円程度に抑えることができました。

途方に暮れる矢倉家を助けてくれた市議会議員には、今でも深く感謝しています。父を助けてくれた市議会議員との出会いは、私の生活の中に政治が入ってきた初めての瞬間でした。関係ない世界の住人だと思っていた政治家が、自分の人生に深く関わってくれたのです。

目に見える形で絶望感から救ってくれ、私たちの人生を変えてくれた。この経験は、のちに公明党議員として国政に挑戦する大きな動機となりました。

父との永遠の別れ

父との永遠の別れ

95年の夏、闘病から一年半を経て父との永遠の別れの日がやってきました。8月3日の朝、大学に行く前に父の病室へお見舞いに出かけました。そのときの父は元気に見えたため、安心して「行ってくるね」と病室をあとに。父は「勉強、がんばってな」と声をかけてくれました。このやりとりが、父と言葉を交わす最後になりました。

大学からバタバタと病院に駆けつけると、父は私の到着を確かめるかのように目を閉じ、翌4日亡くなったのです。

24時間ぶっ続けの肉体労働

父が亡くなってから、アルバイトと司法試験の受験勉強で二足のワラジを履く忙しい日々を送りました。父の収入が途絶えてしまった今、矢倉家に残された借金を私のアルバイトによって返済していかなければなりません。家庭教師のアルバイトとともに、家具搬入の日払いバイトを始めました。路上での交通誘導整理も頻繁にやりました。 長いときには昼→夜→朝と8時間×3セットの24時間フルコースで働いたこともあります。

外交官から弁護士へ、進路転換

外交官から弁護士へ、進路転換

私は外交官を目指していましたが、「これからは官主導という発想にとらわれず、民主導の時代がやってくる。ならば外務省ではなく、民間で働く道もあるのではないか」。そう考え、私は弁護士になることを決意しました。弁護士の先輩に進路相談をしていたとき、「弁護士の仕事とは、苦しんでいる人の人生と真正面から向き合って対話していくことが基本だ。だから弁護士の根底には、たしかな人間性が伴っていなければならない。哲学が必要なのだ」。
という言葉に感銘を受けました。弁護士には法律家の視点から、一般企業とともにビジネスのプロジェクトをしっかり作っていく仕事もあるのだと。

「官主導から民主導へ」という世論が盛り上がる90年代半ば、大学生の私は弁護士として民間で仕事をしていこうと決意しました。

1998年~
 司法試験時代

合格率3パーセントの狭き門

合格率3パーセントの狭き門

司法試験は、公認会計士試験や税理士試験と並び最難関の国家試験として知られています。司法試験の勉強は、東京大学を受験したときとは比較にならないほど厳しかったです。
旧司法試験には、四つの関門がありました。まず一次試験では、短答式試験と論文式試験。この一次試験突破は、司法試験に挑戦する者にとって基本中の基本です。ただ、大学の教養課程を終えていれば免除されます。つまり大学3年生以降であれば、おおむね一次試験を受ける必要はありません。
問題は二次試験です。二次試験では、短答式試験と論文式試験、さらに口述試験という三つの試験が課せられました。短答式試験に合格するためには、約8割の正答率でなければいけません。論文式試験は三日間続き最大の難関でした。
さまざまな法律概念との比較検討など、専門的な論文を、三日間で合計12本書かなければなりません。
みな終わった時にはぐったり。面談式の口述試験は一日に1科目、六日間ぶっ続けで行われます。一瞬たりとも気を抜けません。精神的に一番きつかったのはこの面談試験でした。

一日10時間以上の猛勉強

司法試験の勉強は、今まで生きてきた中で最も過酷を極めました。朝から晩まで勉強に明け暮れ、アルバイトの交通整理をやっている最中も棒を振りながら呪文のように記憶に努めました。はたから見れば、口をブツブツ動かしながら棒を振っている私はかなり不気味に見えたに違いありません。
私は貧乏学生だったため、専門学校に通う余裕などとてもありませんでした。だから先輩からカセットテープなど教材を借り、独学でどんどん勉強していきました。先輩が開いてくれたゼミでは、司法試験を想定した論述問題を解いて採点してもらいました。
アルバイトをしながら司法試験の勉強に挑戦する日々は、肉体的にも精神的にも大変な苦労でした。朝5時代や6時代から家具の搬入仕事をやり、早いときには午前中だけでバイトが終わることもあります。そんなときには、午後から夜まで勉強時間を捻出できました。午後の1時からすぐに始めれば、合計10時間は勉強できます。
「この試験を突破しなければ人生はおしまいだ」というくらいの危機感をもちながら、限界に挑戦しました。亡くなった父の期待に応えたいという思いもありましたし、母を早く安心させてあげたいという気持ちも強くありました。
しかし、司法試験の壁はそうそう甘くはありません。

押し入れに積み上がった答案の山

押し入れに積み上がった答案の山

朝から晩まで勉強に明け暮れても、受験者100人中たった3人しか合格できない。そんな司法試験への挑戦は、まるでゴールが見えないトンネルを歩き続けているかのように厳しかったです。
毎日10時間以上という膨大な試験勉強に挑戦したにもかかわらず、私は3回連続で司法試験に落ちています。大学三年生(95年)、四年生(96年)、卒業後の1年目(卒業年・97年)、卒業後2年目(98年)と合計四回の試験を受け続け、やっと司法試験を突破することができたのです。
2回目・3回目の受験では、先輩から「今回は受かるだろう」と太鼓判を押されていました。「必ず受かる」と満を持して臨んだ試験で、私は落とされてしまった。しかしあきらめて落ちこんでいるわけにはいきません。司法試験に絶対に合格し、世界に雄飛して「正義の旗」を振るのだ。私は司法試験への挑戦をあきらめず、大学卒業前から三度目の試験勉強を開始しました。

ひたすら覚えて覚えて覚えまくる。書いて書いて書き殴る。疲れたなんて嘆いている暇などありません。全身をフルに使い、答案と格闘する思いで向き合っていきました。書いて、読んで、また書く。同じ問題を10回も20回も解き続けます。ダンボールに詰めこんだ答案用紙が押し入れいっぱいに積み上がるくらい、一切の妥協なく勉強を続けました。
しかし今思い返してみると、二度目と三度目の司法試験で書いた答案には独りよがりの部分があったと思います。自分がもっている知識をありったけ詰めこみ、「どうだ。これを読めるものなら読んでみろ」という傲慢さもあったかもしれません。 四度目の司法試験では、それまでの傲慢さを排した答案が書けました。自分を謙虚に見つめ直し、自らがもつ知識を相手に丁寧に伝えていく。四年目の司法試験は、文字どおり背水の陣でした。早く社会に出て、弁護士として世の中の人々のお役に立ちたい。家族を安心させたい。決死の思いで、苦労に苦労を積み重ねて勉強に打ち込みました。そしてとうとう、実を結んだのです。
98年10月、とうとう私は念願の司法試験に合格。これからは、弁護士として社会で「正義の旗」を振っていくのだ。私は晴れて、社会人としての第一歩を踏み出すことになりました。

2000年~
 弁護士時代

恩返しの思いで受験指導を

「官主導から民主導の時代が始まりつつある」と実感していた私は、当初から裁判官や検事ではなく弁護士になりたいと希望していました。民間人の立場に立ち、現場で苦しんでいる人を支えたい。民間人と民間人が対話をし、トラブルを解決していく。その仕事に、自分の全人格をぶつけたいと思ったのです。

しかし司法修習がスタートするまで半年の猶予がありました。この間、ゆっくり海外旅行に出かけたり体を休めるという選択肢もありましたが、私は、司法試験に挑戦しようとしている受験生のためにボランティア講師を務めることにしました。私自身、弁護士の先輩方から無料の特訓ゼミを受け続けたおかげで司法試験に合格できたわけです。今度は自分が恩返しをする番だと思いました。

毎週土曜日と日曜日にゼミを組み、大学のキャンパスに出張したり都心の会議室で試験対策の指導に当たりました。ゼミ生の答案を丁寧にチェックし、一枚の答案に20行、30行、40行……と詳しく添削を入れていきます。アルバイトで生活費を稼ぐ以外は、ボランティア講師の仕事に心血を注ぎました。

司法試験ゼミには10年、20年と勉強を続けている年上の参加者が何人もいました。そしてかたくなさが表に出て非常にわかりにくい答案になる傾向があります。若輩の私が講師として率直に問題点を指摘すると、ほとんどケンカの一歩寸前まで受講者と意見がぶつかる場面もありました。ですが、私も真剣です。「いや、こういうところは相当手を入れて直さなければ司法試験には通過できません。皆さんはこれだけ能力がある人たちなのですから、早く試験にゴールしてもらいたい。司法試験に受かり、多くの人を弁護士として救っていく立場になってほしいのです」。誠実に真剣に指導に当たっていきました。

何年にもわたって受験生をサポートされているご家族の苦労もあります。時間が許す限り、受験生の家庭訪問をしてお父さんやお母さんとも話をしていきました。自分の輝きをどれだけ最大限に発揮できるか。答案に立ち向かう受験者にとっては、司法試験は全人格をかけた勝負なのです。

仲間と切磋琢磨した司法修習生の日々

99年4月から、一年半にわたる司法修習がスタート。最初の半年間は、埼玉県和光市の寮で集団生活を送りながら弁護士の卵、裁判官や検事の卵と一緒に研修を受けました。

埼玉県和光市で半年間研修を受けたあと、山梨県甲府市に一年間住みながら司法修習を続けました。甲府市では裁判官、検事、弁護士それぞれの修習を受けました。弁護士修習のときには、街の小さな弁護士事務所で実務のお手伝いをしました。億単位のお金が関わる非常に複雑な案件の分析を一人で任されました。

3カ月間かけて、身長と同じくらいの高さにまで積み上がった膨大な書類を必死で読みこみました。とにかく大量の書類や証拠を分析し、書いて書いて書きまくる。弁護士の仕事は体力勝負。ときには不眠不休で仕事に取り組み、依頼者の利益を守るために全力を尽くします。気の遠くなるような司法試験をクリアしたおかげで、こうしたハードな仕事にもめげることなく挑戦できました。

大量の書類を分析し、原告側の証言に見られる矛盾点と反論をまとめ上げます。その分析の結果が決め手となり、最後は裁判に勝訴できました。司法修習生の立場ではありましたが、この仕事は弁護士事務所からとても感謝されたものです。

メガバンク合併の現場で奮闘

メガバンク合併の現場で奮闘

司法修習を終えた私は、2000年10月に東京都内にあるアンダーソン・毛利法律事務所(現アンダーソン・毛利・友常法律事務所)で勤務を始めました。

新人弁護士の時代から、私は大規模な企業再編や合併の仕事に携わることができました。2002年4月、第一勧業銀行と富士銀行、日本興業銀行が合併してみずほ銀行が誕生しています。このメガバンク誕生に際し、法律家として難しい仕事に取り組みました。

みずほ銀行誕生は、世界でも類を見ない銀行の大再編劇でした。大きな会社と会社がくっつくわけですので、当然のことながら巨額の資金と人が動くことになります。法律的瑕疵があれば、すべてがオジャンになってしまいかねません。外国資産を安全に移転するため、法律解釈を積み重ねて詳細な法律意見書も提出しました。新米弁護士にとっては、神経がすり減る重い仕事です。

専門的な知識だけでなく、銀行が普段どういう業務をやっているのかといった現場感覚をもち合わせていなければ、適切なアドバイスはできません。対面する銀行側のスタッフは、何もかもすべてを知っているベテランばかりです。司法試験に合格したばかりの新米弁護士が、彼らベテランスタッフに適切なアドバイスをしなければならない。仕事に当たるための事前準備は大変な苦労を要しました。

企業活動をサポートし、ひいては日本経済全体をしっかりサポートする。こうした弁護士の仕事は、私に大きなやりがいをもたらしました。

常習窃盗犯を立ち直らせたい

弁護士の仕事は非常に忙しいです。特に法律事務所に入って最初の三年間は猛烈な激務でした。夜中の二時、三時まで事務所に詰めて仕事を続け、ほとんど眠らないまま小菅の東京拘置所へ国選弁護人として面会に出かける。被告人を励ますため、ポケットマネーで差し入れもしました。

国選弁護人を勤める中で特に印象深かったのは、いくつもの前科をもつ常習窃盗犯の男性です。男性のもとへは何度も接見に出かけましたが、そのたびに「自分なんか生きている価値もない」といつも泣いていました。「そんなことはありませんよ。今度こそしっかりがんばりましょう」と必死で激励しました。

刑罰を少しでも軽くして更生してもらうためにも、どうにかして裁判所に情状証人として出廷してくれる人を探す必要がありました。「私が責任をもって、必ずこの人を更生させます」と言ってくれる人を見つけたい。長年にわたって男性と絶縁状態にある肉親を探すため、私は奔走しました。
私は肉親が住んでいる可能性がある地域の路地から路地を回り聞きこみ調査を。まるで探偵や刑事のような地道な仕事でした。

何度も現地に通って聞きこみ調査を続けると、とうとう探していた肉親が見つかりました。しかし、案の定その人は迷惑そうな様子でした。男性とは何年も連絡を取っておらず、家族だとさえ思っていないといいます。「裁判所に情状証人として出廷してほしい」と頼んだところで、簡単に首を縦に振ってくれるはずもありません。

「Aさんには生きる望みがありません。自分は天涯孤独の身だ。もう生きていたってしようがないと絶望しています。Aさんの人生を救ってあげられる人は、あなたしかいません。あなたの一言が、彼を更生させるカギです」

必死で説得を続け、とうとうその方は情状証人として協力してくれることになりました。何度も犯罪を繰り返してしまう累犯ともなると、人生をあきらめて自暴自棄になっているケースが多いです。犯罪は許されるものではありませんが、被告人の更生は、次の犯罪を防ぐ最重要な方策であると信じています。

国選弁護人の苦悩

国選弁護人として、覚醒剤事件の弁護にも何度か関わったことがあります。覚醒剤は依存性が非常に強い薬物のため、一度手を出してしまうと何度も誘惑に負けてしまうケースが多いです。被告人が何度も同じ罪を繰り返さないように、周囲の家族や友人のサポートは欠かせません。

ある青年は、覚醒剤所持と使用で逮捕されてしまい、就職先の内定を取り消されていました。
接見すると、本人は「もう絶対にやりません」と涙ながらに訴え、深く反省しています。青年は初犯だったこともあり、なんとか早期に社会復帰して更生してもらいたい。そこで彼の婚約者と協力し、内定先の社長とひたすら誠心誠意話し合いました。

覚醒剤事件を起こしたともなれば、会社をクビになっても仕方がありません。ましてや入社前の内定という段階であれば、内定を取り消されるのは当然です。

しかし、青年の深い悔恨と反省を見るにつけ、青年の婚約者と私は、彼の更生を必死に訴えました。絶対に累犯を犯させないことを誓うし、そのためのサポートは惜しまない。そう強く訴えた結果、社長は内定取り消しを思いとどまってくれたのです。
罪は罪として、しっかり罰さなくてはなりません。しかし、再チャレンジを誓う者の可能性の芽を摘み、生きる価値がないとまで弾劾するのは、私は行き過ぎだと思っています。

それに、覚醒剤は常用性と依存性が非常に高いため、ひとたび手を出した人は二度、三度と薬物依存を繰り返してしまうケースが多いです。「二度と薬物に手を出さない」と本人が堅く決意するのは当然として、家族や友人・知人のサポートも大切です。違法薬物の依存者を増やさないため、社会全体での取り組みが必要だと思います。
覚醒剤事件の弁護に取り組みながら、「違法薬物が簡易に手に入る社会を、なんとかして変えたい」と強く願うようになりました。

アメリカの名門UCLAに単身留学

アメリカの名門UCLAに単身留学

弁護士として働き始めて四年目の2004年6月、転機が訪れます。私は日本を離れてアメリカに留学しました。まずはアメリカ中西部のミシガン州に飛び、2カ月間英語の勉強に努めました。続いて、この年の夏からUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で法律を学んでいます。留学を決意した理由は、弁護士として多忙な数年間を送ってきたため、これからの自分の人生を静かに見つめ直す時間もほしかったという点もありますが、何といっても十代のころから念願だった「世界に雄飛する」という夢を現実にしたいという思いからでした。

法律家として日本のビジネス界で仕事をしていくためには、今アメリカで起きていることをいち早く知っておく必要がありました。アメリカのビジネスにまつわる法律事情を押さえておけば、日本で仕事をするときにも確実に役立ちます。自分が生まれ育った日本を外国から客観的に眺めてみたいという思いもあったし、世界の法律家とおおいにディスカッションしたいという欲求もありました。

UCLAに留学当時のアメリカは、資本の論理で強い者が弱い者を飲みこんでしまうことも、ともすれば是認されてしまう風潮でした。リーマン・ショックによってアメリカ経済が大打撃を受け、こうした論理に疑問が投げかけられるようになったのは08年9月以降のことです。

UCLAでは、自分とは意見が違う人々と議論をぶつけ合いながら切磋琢磨していこうと思い、貪欲な気持ちでアメリカでの学業に打ちこみました。そして05年5月、私はUCLAで法学修士課程を修了します。

ワシントンとニューヨークで広げた人脈

ワシントンとニューヨークで広げた人脈

UCLAでの留学を終えると、05年9月からアメリカの法律事務所に出向して働くことになりました。その際、アメリカ・ニューヨーク州の弁護士資格をとろうと決意。世界をまたにかけて活躍する国際弁護士として、日米双方で仕事をしていきたいと思ったのです。

05年5月にUCLAで修士号を取ると、7月の試験に向けて二カ月かけて集中的に勉強しました。予備校に通って必死になって勉強したものの、残念ながら7月の試験では落ちてしまいます。アメリカの法律事務所に出向して働きながら、その後、晴れて試験をパスすることができました。私は、アメリカ滞在中に、国際弁護士として第一歩を踏み出すことができました。後年は中国でも法律実務を積んでいます。さらには、国家間の交渉にまで私は関わることになります。

アメリカ滞在中は、西海岸のロサンゼルスだけでなく東海岸のワシントンDCやニューヨークでも仕事をしています。ワシントンDCは政治の中心地、ニューヨークは経済の中心地。世界の政治・経済の中心地で、おおいに刺激に富んだ日々を送ることができました。

ワシントンDCには5カ月間滞在しながら、世界銀行やIMF(国際通貨基金)など国際機関に勤める職員と人脈を深めました。アメリカでは、一人の上院議員が何十人ものスタッフを抱えてものすごい勢いで仕事をしています。ワシントンDCでは上院議員の事務所を訪ね、ロビー活動の一端にも携わりました。

弁護士が民間企業と中央省庁との間に立ち、国益増進のためにさまざまな立場の人々と協働作業を繰り広げていく。ときには一緒に食事やゴルフをしながら幅広く築いた人脈は、のちのち思わぬところで大きな助けになりました。

『三国志』ルーツの国で語学研修

2004年から06年にかけてのアメリカ滞在中、ものすごい勢いで伸びゆく中国の勢いを肌で感じます。08年の北京オリンピックを控え、中国は急速な経済成長を続けていました。経済界では国名の頭文字を取り、BRICs(Brazil=ブラジル、Russia=ロシア、India=インド、China=中国)の4カ国が世界的な注目を集めていた時期です。

そこで06年6月、私はアメリカを離れて中国へ渡ります。中国では06年から07年初頭にかけて、復旦大学で中国語を学びます。中国語研修を修了してからは、中国の法律事務所に出向して07年8月まで働きました。
復旦大学では100パーセント中国語の授業が始まりました。学校に行く途中もベッドの中でも中国語のCDを聴き続け、わざと上級コースのクラスに入って自分を追いこみました。日本語を勉強したがっている中国人をつかまえて、私が日本語を教えてあげるかわりに中国語を教えてもらいました。

授業は朝から昼までみっちりあり、大学の授業が終わってから机に向かって4・5時間勉強する。夜は友だちと食事に出かけたりお酒を飲みに行き、その場でもずっと中国語でコミュニケーションを取っていました。24時間すべてが中国語の実地訓練だというつもりで、徹底的に勉強する毎日でした。

当時の北京や上海は活気と生命力に満ち溢れており、街を歩いているとみんな元気な表情でした。「明日は今よりもっとよくなっていくのだ」という息吹にあふれ、街全体の開発が急速に進んでいました。

復旦大学での留学中は、弁護士事務所は休職しており、給料はもらっていません。だから資金が続かず、経済的には大変でした。中国留学中、週に4日は屋台で売っている3元(当時、日本円にして45円)の焼きそばを食べていました。復旦大学の横に路地があり、そこでリヤカーのような屋台をひいたおじさんが焼きそばを作ってくれます。この焼きそばが安くておいしかったため、留学中の主食にしていました。

この中国留学中は家計が苦しかったが、実はアメリカ滞在中も留学費用は自分もちで、アパートの家賃や生活費の捻出は大変でした。今では円高がずいぶん進み、ときには1ドル=70円台になったこともあります。当時の為替相場は1ドル=130円台だったため、今留学するよりも何割も出費がかさみました。

とりわけ、ニューヨークは家賃が異様に高いため困りました。普通は1年以下の滞在ではアパートは貸してもらえないのですが、なんとか頼みこんで4・5カ月の短期間でアパートを貸してもらいました。マンハッタンの中心地でアパートを借りたせいもありますが、たった五畳程度のワンルームマンションだというのに家賃が2000ドルもしました。日本円にして、1カ月20万円以上です。

アメリカと中国を渡り歩く留学生活によって、私の貯金はほとんど完全に底をついてしまいました。もっとも、この留学は自分に対する投資でもありました。弁護士として世界で雄飛するためには、少々の出費を自ら負担してでも徹底的に勉強する必要がありました。

2009年~
 経産省時代

経済産業省へ新たな挑戦

経済産業省へ新たな挑戦

2009年初頭、新たな転機が訪れます。経済産業省より弁護士としての経験を活かし国際交渉の仕事に携わることの要請をいただいたのです。「官主導から民主導へ」という時代の転換期を見据えて弁護士になった私だからこそ、あえて官僚の世界に飛びこんだときに、私ならではの仕事ができる。そう考え決意いたしました。
所属法律事務所のご理解をいただき、事務所に所属しながら経済産業省に出向の形を取りました。経済産業省への出向の任期は2年。任期はのちに延長の要請をいただき、最終的に政治の世界に入ることを決断するまでの3年3カ月間にわたって経済産業省で勤務することになります。
私は通常であれば、いわゆるキャリア官僚が就任する参事官の補佐役として抜擢を受けました。経済産業省の通商機構部という部署に所属し、さまざまな国際業務の案件に携わることになります。

偽ブランド品を撲滅せよ!

2009年に経済産業省職員として赴任すると、最初に模倣品対策の仕事に取り組みました。海外各国では、本物そっくりのブランド品を偽造して高額で販売する悪徳商法がまかり通っています。偽物、まがい物を高い値段で買わされれば、消費者は無駄なお金を支払わされてしまい、メーカーは、多大な損害をこうむる。また、こういった模倣品による収益が、反社会的組織に流れているのです。模倣品による違反行為は、日本のビジネス界の利益を侵害するだけではありません。世界の秩序にも関係します。したがって、模倣品ビジネスは日本として看過できないのです。

そこで欧米各国を巻きこみ、国際協定を締結して模倣品対策を一歩前に進めることを目指しました。まず日本とアメリカが共同提案して協定の枠組みをつくり、その枠組みにシンガポールやオーストラリア、ニュージーランド、韓国、モロッコ、カナダ、EU(欧州連合)など世界各国を巻きこむ。さらには中国やインド、ブラジルなど新興国にも協定に参加してもらい、世界のビジネス界共通のルールを策定しようと考えたのです。

私は特に税関での取り締まりや刑事罰についての交渉を担当しました。条約をバランスが取れた形にするため、世界中あちこちを出張して歩きました。

A国に××という法制があるせいで、B国やC国は協定に合意できてもA国は合意には至らないかもしれない。どううまく折り合いをつけて、すべての国を合意に導くことができるか。問題点を一つずつ地道にクリアしていく作業が続きました。

コンビニおにぎりと徹夜の激論

国際交渉の最前線で奮闘した結果、「偽造品の取引の防止に関する協定(ACTA)」は2010年10月に妥結に至ります。 妥結に至るまでの最終盤では、東京で会合を開いて二週間ほとんど眠らずにぶっ続けで会合を続けました。経済産業省のトップである事務次官や、国際通商の舞台で指揮官を務める経済産業審議官、さらには各国のトップ級のリーダーが外務省や経済産業省の大部屋に集まって徹夜で議論を重ねます。ゆっくり食事に行っている暇などなく、コンビニで買ってきたおにぎりを頬張りながら奮闘したのも懐かしい思い出です。

海外出張はエコノミークラスで

経済産業省での3年3カ月の間に、合計で約30回の海外出張を経験しました。ただし、私の出張時は、当然ながらエコノミークラスを利用。ビジネスクラスの優雅な渡航など、夢のような世界です。

日本からジュネーブへは直行便がないため、乗り換えをしなければならないのも体力を消耗しました。乗り換えはパリを経由することが多かったです。パリに午前4時に到着し、寒い空港のロビーで2時間ほど待つ。
それからジュネーブ行きの便に乗り換えるというコースが多く、当然のことながら、パリに長めに滞在して街でゆっくり買い物をすることなどできるわけがありません。

トラブルも多かったです。ロンドン経由でジュネーブに向かったとき、なぜか経由地のロンドンから荷物がジュネーブに届かなかったことがあります。旅行カバンが行方不明になってしまったのです。ジュネーブでの出張初日は、スーツもなくヒゲもそれませんでした。仕方がないので、行きの飛行機で着ていたセーターにジーンズ姿で国際会議に出席し、日本代表として発言するという場面もありました。

パリ経由でジュネーブに向かおうとした際、パリのシャルル・ド・ゴール国際空港が寒さで凍ってしまい、飛行機が着陸できなかったことがあります。飛行機はパリには着陸せず、そのまま南フランスのトゥールーズ空港に向かいました。トゥールーズ空港で飛行機に閉じこめられたまま4時間が経過し、ようやくパリに着陸。ところが今度はパリからジュネーブ行きの飛行機がなく、しかもシャルル・ド・ゴール国際空港のロビーで野宿しなければなりませんでした。

約一週間の日程で海外出張に出向くと、仕事が山積みでゆっくり食事をしている暇などありません。睡眠時間は限界まで削り、ホテルの部屋にいる時間さえたった数時間という有り様。食事をする暇も観光している時間もなく、出張時の一週間は毎食ケバブ(パンに肉や野菜を挟んだサンドイッチのような食事)をかじり続けたこともあります。

このように恵まれた環境ではなかったものの、かえって仕事にはハングリー精神を燃やして臨むことができました。だからこそ、諸外国のタフ・ネゴシエーターと喧々諤々渡り合っていくことなどできたのだと思っています。

熾烈な国際交渉の現場にて

熾烈な国際交渉の現場にて

経済産業省での経験から、国際交渉の現場で優位に立つためには、まずは各国の主張の特徴や意思決定のプロセスを正確に見極めることが大事であることを痛感しました。

たとえば、アメリカとぎりぎりの交渉をしている際、先方の担当者が前に言っていたことと違う意見を急に出してきたり、意見を二転三転させることがあります。そんなときには、アメリカの議会の誰がどんな意見を言っているのか分析する必要があります。アメリカは「民意の国」と言われ、議会の力が強いのです。また、EUは、自らの主張を「複数の加盟国全部の総意」であるとし、国際会議の場で意見を強く主張することがあります。しかし、内実はEUの総意に反対の国もあります。そんなときは、EU内の反対国と接触することもあります。 交渉を重ねている相手国のどこに、今押すべきボタンがあるのか。正確に把握しない限り、交渉は破談します。情報戦争に勝つため、毎日、大量の情報をインプットすることは基本業務でした。

それぞれの国の意思決定における特徴をつかみ、緩急をつけて議論する必要がありました。経済産業省で取り組んだ国際交渉の仕事は、外交官の仕事とほとんど変わりはありません。

私は高校生時代、外務省に入って外交官になりたいと志望していました。その志望が大学入学後に変わり、司法試験に挑戦して弁護士になったわけです。弁護士として社会に出た結果、法曹界の仕事だけではなく外交官とほとんど遜色ない仕事ができる。人生とは不思議なものだし、無駄はないのだとつくづく思います。

2012年~
 立候補・選挙活動

東日本大震災と政治への決意

東日本大震災と政治への決意

政治を志す転機となったのは、2011年3月11日に発生した東日本大震災でした。

あの日、私は経済産業省16階で会議中でした。
荒れる海の上に小舟でいるような大きな揺れに驚きと恐怖を感じました。その後の惨状は目を覆うばかりでした。

「政治主導」とは、このような緊急時のための言葉だったと思います。
しかし、霞が関から見た私の目から見て、当時の政権与党の行動は、「政治主導」とはほど遠いものでした。
「主導」するためには、現場を歩き、生の声を直接聞き、霞が関その他に伝え、組織を動かす原動力としなければならないはずです。

しかし、被災地からは、当時の与党の国会議員は被災地にいっても写真をとって帰るだけ、まるで観光旅行のようだったという批判の声まで届きました。

また、緊急事態なのですから、省庁の縦割りシステムを打破するような指示、つまりまさしく、「政治主導」の指示を出すべきだったと思いますが、そのようなことはほとんど起きませんでした。

対策本部をたくさん立ち上げることに忙しくなり、復興のタイミングを逸してしまったように思います。
掛け声だけの「政治主導」に失望し、ある種の危機を感じた私は、政治の革新のために、何かできないか、と真剣に考えました。
「現場の声を受け止め、同苦し、悩みながら解決する。そんな心のある政治を行いたい、自分がその先頭に立ちたい!」そう思い、私は、2012年4月19日、公明党の青年局次長として参議院議員選挙の埼玉選挙区予定候補の公認をいただき、政治活動を開始しました。

458日間休みなく動く

公認をいただいてより休みなく、埼玉県をまわりました。あとから振り返り、当選までの日数を数えると、458日間です。

埼玉県というところは、「彩(さい)の国」と言われます。彩りあふれる地域という意味です。その彩の字は「差異(さい)」につながる、とおっしゃった方がいました。私の尊敬する方です。

埼玉というのはまさに「差異の国」だ!東西南北に多様な表情を持つ「日本の縮図」である、埼玉県をまわり確信しました。埼玉の具体的な声のなかにこそ、日本の抱えている問題が凝縮されている。問題を解決するヒントがある。埼玉を起点に問題解決の糸口を探れば、ひいては日本全体を問題を解決する方途が見つかるはずだ。
そう思った私は、「知恵は現場にあり!」――この信念のもと、中小企業を中心に1000社以上のお声を聞き、農業従事者の方々などの訴えを聞きました。

「強い日本経済を復活させてほしい」「景気回復の恩恵を庶民の手にも!」――回ってきた1000社以上の中小企業の方々から寄せられた声を、絶対に無駄にはできない!日に日にその思いを強くしました。

どこに行っても応援をしてくださる方々の声がありました。どれだけ励みになったかしれません。
雪の日の街頭演説、新幹線が泊まるようなときも、聞きつけた方が40人ほど集まってくれたりしました。
夏の日、汗だくの私の顔にそっとタオルを置いてくれた方も。

小さなお子さんが寄ってきて、「矢倉かつおさん頑張って!」と、似顔絵を渡してくれたときは感動で涙がでそうになりました。

また、著名人の方からも様々なエールをいただきました。4月29日には、敬愛する政治評論家の森田実先生と対談の機会をいただきました。
「公明党の議員は困っている人がいたら、すぐ飛んでいく」「徹底的な現場主義」「若い後継者がどんどん育ってきている唯一の政党」「中央と地方が一体になって一番頑張っているのは公明党」などと、熱のこもったエールを頂戴しました。最後には、「公明党の応援団になりたい」とニッコリ。森田先生と固い握手を交わしました。

◇森田実氏と矢倉かつおの熱血対談のさらに詳しい内容はブログで公開中!

政治評論家・森田実氏と熱血対談

このように周囲の期待、温かさを感じ、感謝の思いで埼玉県内を走り抜きました。

立候補、そして選挙戦

2013年7月4日、いよいよ公示日です。

第一声は大宮駅、およそ2000人の方が集まる、大集会となりました。公明党山口代表がきてくださり、激励してくださいました。

選挙戦の過程の詳細はこちらをご参照ください。暑い夏の選挙でしたが、大好きな自転車を乗り回り、広い埼玉を走りきりました。新しい時代を開くのは青年の熱と力である!強く訴え、ご期待をいただきました。

そして投票日前日である20日の夜は、最後の最後まで、浦和駅の駅頭に立ち続けました。なんと驚くべきことに、その知らせを
聞いたたくさんの方々が、私の激励のために浦和駅へ浦和駅へと駆けつけてくださいました。その数およそ200人から300人!「ただ一人になろうとも最後まで立ち続ける」――そう誓っていた私でしたが、大変な思い違いをしていることに気がつかされました。私は決して一人ではない、「世界最高の支持者」の皆様に応援をされた、「世界一幸せな候補者」である、勇気百倍で選挙戦を終えました。

勝利、そして新たな戦いのスタート

そして迎えた投票日、午後8時の直後、埼玉選挙区・矢倉かつおが当選確実となりました!(NHK報道)当選確実の報を耳にしたとき、各地でお会いした、お一人おひとりのお顔や、メールなどを通して届けていただいた励ましのメッセージが、走馬灯のように蘇りました。

今、参議院議員として活動させていただいているのも、支持者の皆様、お一人お一人の勝利の上に築いていただいた金字塔である、今、心の底から、そう実感いたします。心から感謝申し上げます。本当にありがとうございます。

これまで、矢倉かつおへ寄せていただいた、大きな大きなご期待を命に刻み、「世界で勝てる日本をつくる」ため、全力で頑張ります。